追記 振り返り配信を受けて 演出家・樋口楓のこと

f:id:kry_0529:20190115115517j:plain1/14の23:30から放送された振り返り配信を受けて感じたこと。引退だとか、コンテンツの死だとか、演出家としての樋口楓のことだとか。

1st Liveを大成功に終えた直後にコンテンツの死(Vtuberのことをコンテンツと呼ぶのは本意では無いが、ここでは敢えてそう呼ぶ)について触れるところに彼女の死生観が再び垣間見える。前エントリでも触れたように、同じコンテンツに同じ熱量を注ぎ続けるというのはほとんどの人にとって難しいことだ。高まった熱は平衡して少しずつ冷めていくものだし、他に熱中するものを見つけることだってある。ある瞬間に突然飽きてしまうこともある。この点において樋口さんは「私は一度好きになったものはずっと好きなままだった(だから周りのみんなが、好きだったものから興味を移していくことに違和感を覚えていた)」と言っていて、ならばVtuberとしてコンテンツを発信する立場になった樋口さんが "樋口楓" というコンテンツの終わり方、もとい「終わらせ方」について考えを深めていたのはある意味当然のことかもしれない。なぜなら彼女は「見られること」に対して強く自覚的だったからだ。

以前から彼女は「みんなの期待する "樋口楓" を見せる」というテーマを掲げていることを口にしていた。「みんなの見たい "樋口楓" を見せている」という半ば冒涜的にすら受け取れる発言にも関わらず、むしろ私たちは彼女の意図や思想に翻弄されることを楽しんでいたと思う。どこまでが彼女の意図する "樋口楓" の姿なのか。どこまでが演出の範疇で、どこからが自然体の反応なのか。決して黒と白に分けられないマーブル模様の境界のあり方に彼女の魅力の一端があることは間違いないだろう。そんな根っからの演出思考である彼女がどんな "終わり" を見せてくるのか。そう考えると終わりを迎える恐怖や喪失感よりも、それを見てみたい、楽しみたいという気持ちが強くなってくるのを感じるのだ。

辞めてほしくない、いつまでも続けてほしい、少なくとも今はまだそんな話をしないでほしい。そういった気持ちは理解できるしむしろ当然感じるものだ。しかしいつか必ず終わりが来る、これだけは絶対に変えられないのだから、そのことから目を背けるのは、気付かない振りをしてもらおうとするのは、逆に不誠実ですらあると思った。人はいつか必ず死ぬから、生前に遺産を整理したり遺言を纏めたりする。同じように彼女が自らの死を、幕の引き方を考えるのは当然で、むしろ信頼できることのように感じる。1st Live直後に引退の話ができる彼女だからこそ、あの「命に嫌われてくる。」が歌えるのだ。

1st Liveの大部分の演出を考案したという彼女が稀代の演出家であることはあの Liveを見た誰もが同意することだと思う。今は少し冷や水を浴びせられたような気持ちかもしれない。けれどいつか彼女が魅せてくれる "樋口楓" の最高の幕引きをの日を、悲観的なものではなく楽しみな日として待ちたいと思っている。その日のために「生きて」、最高のコンディションで迎えることができたら、これ以上嬉しいことはない。