君はいますぐ「ペンギン・ハイウェイ」を見に行かねばならないと僕は考えるものである。

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 ペンギン・ハイウェイを見た。少年とお姉さんとペンギンを中心に描かれた非常に面白いSF映画で、視聴後にじんわりと全身が満足感に包まれる一方で、SNS上でお姉さんのおっぱいが大きいことにしか言及していない連中に対して沸沸と怒りを感じていた。お前たちはおっぱいのことしか話せないのか。それではおっぱいに興味を示す人にしか届かないではないか。アオヤマくんがお姉さんに抱く未分化した感情や、研究に対する真摯な姿勢、ペンギンの正体、知性の描き方、お姉さんの表情や振る舞いそして言葉使いが構成する絶妙な「お姉さん」という存在を一切掬い上げられていないではないか。そうした大きな気持ちを抱いた。しかしこれも仕方ない部分はある。娯楽が飽和する現代社会、大衆に訴求するには分かりやすくインパクトのあるフレーズが重視される。短文に情報量を詰め込めようとするSNSなら尚更のことだ。その中で彼らが目を付けたのが「お姉さんのおっぱい」だったのだろう。しかしここはブログという一定以上の文章量を許容されている媒体なので、思う存分文字を使ってお気持ちを書き表したい。彼らの事情は理解しないでもないが、感心もしない。

 

 と、おっぱい論者に対してけちを付けては見たものの、この映画が少年が大きなおっぱいとお姉さんに向ける大きな感情を描いた映画であることは事実である。主人公であるアオヤマくんはお姉さんのおっぱいへの興味を恥ずかしげもなく公言するし、彼のノートにはおっぱいのスケッチや大きさを計算する数式が書かれている。そして彼はお姉さんのおっぱいをいつも見ている。どれだけ見ているかと言うとお姉さん本人に「私のおっぱいばかり見ているじゃないか」と窘められるほどである。映画の画面構成も、彼の視点を反映しているかのようにお姉さんのおっぱいを常に写している。立つお姉さん、座るお姉さん、チェスを指すお姉さん、寝るお姉さん。どのお姉さんが映されるときでも、わざとらしくない程度に(それだけおっぱいばかり映っているのでどうやってもわざとらしいのだが)おっぱいが画面に収まるようにカメラが向けられている。それを見てアオヤマくんが「なぜ僕はおっぱいのことが気になってしまうのだろう。なぜおっぱいはいくら見ていても飽きないのだろう。お母さんのおっぱいと物体としては同じなのに、どうしてこんなにも印象が違うのだろう」と悩むシーンが好きだ。まず、アオヤマくんは頭が良い少年なのである。どれほどかと言えば原作の小説は「ぼくはたいへん頭が良く――」から始まるくらいで、彼は非常に賢く、そしてそれをきちんと自覚している。そんな聡明な少年がお姉さんのおっぱいに対して抱いた感情をうまく言語化できず、ノートに整理してまで思い悩むのである。賢く早熟な少年が、感情という名の理論の通じないモンスターに対して、言葉と思考と観察を費やす場面が、猛烈に好きなのである。

 

 アオヤマくんについての話をしたい。アオヤマくんは先述した通り賢い少年であり、今作の主人公である。この映画の好きなところの一つに「賢さ」の描写の巧さがある。アオヤマくんは何度も繰り返している通り「賢い」少年なのだが、では彼の「賢い」という性質はどのように表現されるべきだろうか。ここで「テストでいつも満点」とか「先生の稚拙な説教を論破」とかいう描写をされると一気に興ざめなのだが(こうした展開に興ざめする感情の動きを、何も言わずとも理解してくれる人向けにこの文章は書かれているので細かいロジックの説明はしない。こうした表現を好む層がいることも事実である)、実際のところアオヤマくんの「賢さ」は研究的思考と整然とした発話に纏められていて、その描写が非常に気持ち良いのである。アオヤマくんは何でもノートに書く。気づいたこと、見たこと、思ったこと、考えたこと、やるべきこと。その全てをノートに書く。そうして蓄積した情報から新しい仮説を導くと次はそれを実証する。条件を変えながら実験を繰り返し、その結果をまたノートに纏める。そうして仮説を証明したり、また新しい仮説を考えたりする。彼の姿勢は科学そのもので、それでいてこまっしゃくれた感じはない。アオヤマくんは頭の使い方と同じくらい、ノートの使い方を知っている。そんな彼の賢さの表現はすごく上手で、納得と満足感があった。

 

 アオヤマくんの友人にウチダくんという人物がいる。ウチダくんはアオヤマくんのクラスメイトで、アオヤマくんと同じく強い知的好奇心を持つ少年である。彼の存在がアオヤマくんのアオヤマくん性(とでもいうべきもの)をうまく強調していると思う。ウチダくんはいわゆるテンプレート的な――渾名がハカセになるような――少年で、街の探検とそれを地図に纏めるのが好きで、眼鏡をかけていて、気弱で、クラスの図体がでかいやつにびくびくしている。ではアオヤマくんはウチダくんとどう違うかというと、一番にアオヤマくんは自信に満ちている。発言ひとつひとつが吟味されていて、躊躇がない。アオヤマくんの話し方を聞くと誰もが大人っぽいと感じるだろうけど、その原因は言葉使いが大人びているからでも、子供らしくない論理的な会話をするからでもなく、その喋り方にある。アオヤマくんの淡々と、それでいて自分の正しさを疑わない自信に満ちた話し方は聞いていてとても気持ちが良いのだ。二番目に思考力にも差がある。ウチダくんはあくまで「好奇心旺盛な子」という範疇を出ない。一方アオヤマくんには先述した通り科学的な、研究者的な視点を持っている。この物語はアオヤマくんの住む郊外の住宅街に突然ペンギンが現れるところから始まるのだが、突然現れたペンギンに興奮する一方のウチダくんに対してアオヤマくんはその現象の原因について考察し、仮説を立てようとしていた。こういう対比を繰り返してアオヤマという少年の特別性をすこしずつ浮き立たせていくのは上手かった。

 

 ウチダくんのような少年が「お姉さん」に出会い、新たな経験を積んで、一皮向けて大人になっていくという成長譚としての物語は王道の一つだろうけど、その道を進まなかったのがペンギン・ハイウェイなのだ。ペンギン・ハイウェイペンギン・ハイウェイ性を担保しているのはアオヤマくんなのだと思う。やや余談だけどウチダくんがペンギンに名前をつけていたのが好きだ。アオヤマくんは名付けなんてする素振りもみせておらず研究対象として見るばかりだったので、そういうところがアオヤマくんとは違う、ウチダくんの良いところなのだと思う。

 

 本当はもう少しお姉さんのこととか、アオヤマくんと同じくらい知的でアオヤマくんの百倍は感情が大きいハマモトさんのこととか、アオヤマくんのお父さんの聡明な教育的態度とか、そういう話をする予定だったが、街に訪れた謎を解明していくアオヤマくんの賢さが好きで仕方がないという自分の気持ちがハッキリしてきたのでこの辺にしようと思う。特に話の根幹に関わる話はしていないと思うので是非劇場に足を運んでこのうまく作られた作劇を堪能してほしい。会話の妙、街を襲う謎とその解明、アオヤマくんとお姉さんの間の感情の機微、どれもがすっきりとアニメーションとしてうまく纏まっていて、非常に面白い映画になっている。原作小説をどう読み替え、抽出し、再構築したのかも興味深いはずだ。自分は早速Kindleで購入して読み始めているところで、読み終わり次第もう一度劇場に足を運びたいと考えている。

 

 君はいますぐ「ペンギン・ハイウェイ」を見に行かねばならないと僕は考えるものである。これは仮説ではなく、個人的な信念である。

penguin-highway.com