魍魎、そして匣

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京極夏彦魍魎の匣」を読んだ。表題にある通り「魍魎」と「匣」を軸に話が進んでいく。匣について思ったこと。

 

この小説には作中作「匣の中の娘」が登場する。箱を満たす、空間を埋めるという妄執に取り憑かれた男が匣に収められた娘に出会い、それに魅入られてしまうお話で、小説全体に異様な雰囲気を与えている。

例に漏れずこの作中作が物語のキーになっていくのだが、ここで描写される箱の妖しい魅力が興味深かった。

 

人と箱の関係には二通りある。箱に何かを詰めるのか、箱の内に己が入るのか。人と箱のどちらを主体に、どちらを客体にするかという話だ。

 

前者、箱に何かを入れるとき。これは箪笥に服を詰めたり、大切なものをしまったりするような「収納」「所有」「蒐集」のイメージだ。ぴっしりと隙間無く埋まった収納には快感を覚えるし、箱に宝物を仕舞い込むときとそれを開いて確認するときの興奮には身に覚えがある。

 

後者、箱に己が入るとき。布団に包まる感覚が一番近いだろうか。冬場、布団や毛布を身体の周りに隙間無く敷き詰めて簀巻きのようにして眠った経験があるだろう。

「匣の中の娘」の男は部屋で眠ると隙間が大きくて恐ろしいので押入れの上段に布団を敷いて眠る。下段には荷物を入れて空間を潰し、さらに荷物と荷物の隙間に土を詰めてまで空間を埋めていく徹底ぶりを見せる。これほどでは無くとも、「包まれる」ことに安堵感を覚えるのは誰にでもあることだろう。自宅に戻り一息ついたり、気の置けない友人たちと一緒にいたりするときに感じる「自分のテリトリー」のような安心感もそうだ。

 

ここで恐ろしく思ったのは「箱の魅力は誰にでも感じうる」ということだ。「魍魎の匣」の作中では匣の異様さ、不気味さが何度も描写されるし、匣に魅入られる危険性も強く語られる。

「止せ! 関口!」

京極堂が恫喝した。

「君なんかが覗くには百年早い! 君も雨宮や久保のように向こう側に行きたいのか!」

向こう側──そこには幸せが──。

「君がそのつもりなら僕はいいがね。どうもここにいる連中は皆それを望んでいるようだ。いいか、それは幻想だ。開けてはならぬものだ!」

 それなのに、読了後も箱に嫌悪感を持つことがどうしてもできない。箱の魅力を否定できない。

 

先に書いたように箱に魅力を感じるのは自然にあることなので、この本を読んで変な嗜好に目覚めたとか、ミイラ取りがミイラになったとかいう話ではないのだろうけど、やはりなんだか後ろめたい、疚しい気持ちになってしまう。箱が魅力に満ちていること、身の回りは箱で溢れていることに気づいてしまった。

おそらく読者がこうしたアンビバレンスな感情を抱くことまで作者の想定のうちなのだと思う。読者と視点を共有する関口巽が匣に囚われかける部分からそう感じた。掌の上でうまく転がされてしまったのだ。これも「呪い」なのかもしれない。これで本作がつまらなければ無かったものとして無視してしまえるけど、大満足の面白さだったのでそうもいかず、「呪い」とは上手く付き合っていくことにした。

 

作中には「匣の中の娘」に限らずいくつもの箱が登場する。何人もの人物が登場し、いくつもの人生が語られ、いくつもの物語があり、その中心には箱がある。前作「姑獲鳥の夏」が一つの姑獲鳥とその周囲の物語だったのとは対称的に、いくつもの魍魎と匣が現れ、どれとどれがどう絡み合っているのか、それとも何の関係も無いのか、徐々に解き明かされ、知恵の輪を解いていくような面白さがあった。次作「狂骨の夢」にも期待したい。以下、本作で特に好きだったシーンの引用で終わります。

 「雨宮は、今も幸せなんだろうか」

「それはそうだろうよ。 幸せになることは簡単なことなんだ」

京極堂が遠くを見た。

「人を辞めてしまえばいいのさ」

捻くれた奴だ。ならば、一番幸福から遠いのは君だ。そして、私だ。

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