追記 振り返り配信を受けて 演出家・樋口楓のこと

f:id:kry_0529:20190115115517j:plain1/14の23:30から放送された振り返り配信を受けて感じたこと。引退だとか、コンテンツの死だとか、演出家としての樋口楓のことだとか。

1st Liveを大成功に終えた直後にコンテンツの死(Vtuberのことをコンテンツと呼ぶのは本意では無いが、ここでは敢えてそう呼ぶ)について触れるところに彼女の死生観が再び垣間見える。前エントリでも触れたように、同じコンテンツに同じ熱量を注ぎ続けるというのはほとんどの人にとって難しいことだ。高まった熱は平衡して少しずつ冷めていくものだし、他に熱中するものを見つけることだってある。ある瞬間に突然飽きてしまうこともある。この点において樋口さんは「私は一度好きになったものはずっと好きなままだった(だから周りのみんなが、好きだったものから興味を移していくことに違和感を覚えていた)」と言っていて、ならばVtuberとしてコンテンツを発信する立場になった樋口さんが "樋口楓" というコンテンツの終わり方、もとい「終わらせ方」について考えを深めていたのはある意味当然のことかもしれない。なぜなら彼女は「見られること」に対して強く自覚的だったからだ。

以前から彼女は「みんなの期待する "樋口楓" を見せる」というテーマを掲げていることを口にしていた。「みんなの見たい "樋口楓" を見せている」という半ば冒涜的にすら受け取れる発言にも関わらず、むしろ私たちは彼女の意図や思想に翻弄されることを楽しんでいたと思う。どこまでが彼女の意図する "樋口楓" の姿なのか。どこまでが演出の範疇で、どこからが自然体の反応なのか。決して黒と白に分けられないマーブル模様の境界のあり方に彼女の魅力の一端があることは間違いないだろう。そんな根っからの演出思考である彼女がどんな "終わり" を見せてくるのか。そう考えると終わりを迎える恐怖や喪失感よりも、それを見てみたい、楽しみたいという気持ちが強くなってくるのを感じるのだ。

辞めてほしくない、いつまでも続けてほしい、少なくとも今はまだそんな話をしないでほしい。そういった気持ちは理解できるしむしろ当然感じるものだ。しかしいつか必ず終わりが来る、これだけは絶対に変えられないのだから、そのことから目を背けるのは、気付かない振りをしてもらおうとするのは、逆に不誠実ですらあると思った。人はいつか必ず死ぬから、生前に遺産を整理したり遺言を纏めたりする。同じように彼女が自らの死を、幕の引き方を考えるのは当然で、むしろ信頼できることのように感じる。1st Live直後に引退の話ができる彼女だからこそ、あの「命に嫌われてくる。」が歌えるのだ。

1st Liveの大部分の演出を考案したという彼女が稀代の演出家であることはあの Liveを見た誰もが同意することだと思う。今は少し冷や水を浴びせられたような気持ちかもしれない。けれどいつか彼女が魅せてくれる "樋口楓" の最高の幕引きをの日を、悲観的なものではなく楽しみな日として待ちたいと思っている。その日のために「生きて」、最高のコンディションで迎えることができたら、これ以上嬉しいことはない。

Kaede Higuchi 1st Live "KANA-DERO" を見た話

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刃物のようなライブだった。生配信の終了を告げる画面で停止したモニターを眺めながら最初に出てきた感想がそれだった。

Kaede Higuchi 1st Live "KANA-DERO" をニコニコ動画の生配信で視聴しました。在宅派なので生配信は本当にありがたかった。インターネットは素晴らしい。インターネットが大好き。そこで感じたこと。というより第2部の「命に嫌われている。」を聞いて感じたことなど。

「命に嫌われている。」

二人の死生観の話。二人に言及する時に必ずと言っていいほどの頻度で俎上に上る死生観の対比の話。死ぬことが怖くて死ぬまでにやりたいことをリストアップしている女と生への執着が薄く生きる意味が分からない時があると言っていた女が、初めてのステージに選んだ曲がこれ。その事実が本当にずっしりと重たくて、背筋にぐっと力を入れて姿勢を正さないと押し潰されてしまいそうになる。

いつも楽しそうに顔を上げてこちらをしっかり見て、身体を大きく使って歌う月ノ美兎さんが、ずっと俯きがちだったり目を閉じていたり、たまに横の樋口さんを見るばかりで、要はこっちの方なんて全然見てなくて、息が詰まるような上擦るような声で歌っていて(特に最後の気を付け、着席の挨拶で掃けたシーン。配信の度に聞く定番の挨拶。何度も使っていて喉の使い方も慣れたものだろうに本当に余裕の無さそうな声をしていて)、こんな月ノ美兎さんを見るのは初めてで、どれだけの気持ちを抱えて歌ってくれたのだろうかと思う。

月ノ美兎さんの「ありがとう」が耳の奥にこびり付いてずっと剥がれない。溢れる言葉をぐっと抑えて一つに凝縮したような、アウトロに被せた退場の言葉が頭から離れない。あの言葉が予定調和の台詞なのか彼女が選んだ彼女の言葉なのか、舞台の下にいる(画面越しに見ている)私たちには到底分からなくて、でもそのままで構わないと思った。あの二人は本当のことを知っている。それはとても素敵なことでそれだけで満足だと思った。とはいえ教えてくれるというなら大喜びになってしまうし裏話トーク配信はいつか聞きたい。

カメラワークが非常に良かった。引きと寄りのバランスが絶妙。見たい場所が見たいタイミングで最高のアングルでズームされる。欲しい画を的確に見せてくれる。ここは本当に絶賛の気持ちを使えたかったところ。「一流は客の要望を満足させるものを提供するが、超一流は客の予想を超越した、客が本当に欲しいものを諭すように提供する」という言葉があるがこのカメラワークはそれに近かった。本当に見たい画がここにありました。カメラ担当の方々に深い感謝を。年収十倍になってほしい。

いつか終わりが来る。誰もが頭のどこかで分かっているけれど、分かっているからこそ絶対に口にはしない暗黙の了解、共通の嘘のようなものがある。同じものに同じ熱量を永遠に向けられるほど人間の好奇心はシンプルに出来ていなくて、それを誰もが(おそらく樋口さん自身も)実体験として理解している。飽きてしまったもの、忘れてしまったもの、離れてしまったものが心の隅のジメッとした場所に並べられていて、後ろめたいような目を背けたいような(そして事実目を背けて見ない振りをしている)気持ちを抱えていて、ふとした拍子にそこ目をやってしまって気不味さを覚えたりする。時には感傷に浸ってウェットな気分を味わう道具にしたりする。そこに彼女がくれた「終わりが来てもこの時は "魂" に刻み込んで前に進み続ける」というアンサー。ここでの "魂" が持つコンテクストは一般的なそれとは幾分違って、Vtuberという文化ならではの特殊な重みがある。だからこそ彼女の言葉がじんと胸に染み込むし、通過するのではなく消費するのではなく、刻み込むようにして(つまりは不可逆なかたちを跡に残すようにして)彼女たちのこれからの歩みを見ていきたいという思いを改めて持った。応援するとか推すとか、そういう言葉でなくて刻み込む。魂に刻み込む。命に刻み込む。

最後の手紙の場面。"樋口楓"  "私"  "魂"  とダブルクォーテーションで囲まれた三つの言葉のコンテクストは、少しでも分かっている者から見れば改めて言葉にする必要もないくらいシンプルなもので、それ故に彼女がある種のタブーに寸前まで迫ってまで剥き出しの言葉を綴ってくれたことが理解できる。大成功に終わった1stLiveにも関わらず残る余韻は歓喜、狂乱というものではなく、むしろ無人のホールに長々と尾を引く残響のような、本来ラストLiveで感じるような感傷的なそれで、これが彼女が私たちの魂に刻み込んだものなのかなと思う。

彼女は「次」にまた会おうと言ってくれた。終わりがいつか必ず来るという残酷過ぎる現実を目の前に突き出した彼女から「次」という言葉が出てくるのは、救いのようでありながら、新たな宣告を突きつけられたような、また何かを刻み込まれてしまうのだろうな、という緊張感を覚える。それでもやはり「次」が楽しみでならないし、その時が来るのを心待ちにして「生きて」いたい。

書ききれなかった魅力が本当にまだまだ沢山あって(本当に格好良くてどこか示唆的なオープニングムービー、ゲスト3人とのコラボ曲、いつも通りのようでどこか特別な、それでいてやっぱりいつも通りなトークの空気感、3Dモデルが描出する4人の身体性の違い。膝の使い方もリズムの取り方もみんな少しずつ違う。そこに強烈な彼女たちの "実在" を感じずにはいられない。そしてアンコールの入りに流れる波音…………!!!!)(樋口さんのお水を取る姿が良すぎる。身のこなし、口へ運ぶ動き、全てが本当に格好良い。)何度も見返したい素敵なステージでした。本当にありがとうございました。回数制限無しに繰り返しタイムシフト視聴が可能なネットチケットは1/21の23時59分まで販売中ですよ!!!!!!

secure.live.nicovideo.jp

LILIUM-リリウム 少女純潔歌劇- のこと

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 LILUMである。LILIUMはモーニング娘。'14選抜メンバー、スマイレージハロプロ研修生によって2014年に公開されたミュージカルである。森の奥のサナトリウムを舞台に、醒めない夢に翻弄される吸血鬼の少女たちの運命を描いている。――舞台は吸血種の少女たちが療養するサナトリウム。ある日シルベチカが失踪して友人のリリーが行方を探すが、皆は「シルベチカなんて知らない」という。シルベチカの存在はリリーの妄想なのか悩む中、日ごろ単独行動しているスノウが「彼女を探さないで」という。シルベチカ失踪の謎、そしてサナトリウムの真実が解き明かされる時、少女たちの残酷な運命が浮かび上がっていく――(Wikipediaより引用)

 

 はぁ、という感じである。アイドル、舞台、ゴシック。事前のファンでもないと取っ付きにくい要素を順に並べたようで、近寄りがたさを感じる。しかしLILIUMの人気は根強く、勧める人は多い。「たかがアイドルの一公演」とは言わせないという熱量が、彼らにはある。

 

 今回LILIUMを観ることになったのもフォロワーから熱烈に(そう、熱烈にである)勧められたからである。人に何かを観させたいと思う時に取れる作戦は大きく分けて二つあると思っている。一つはその作品の話を延々とし続けること。娯楽が幾らでも溢れている現代、「面白い」と思わせる以前に「こういう作品が存在する」と知ってもらうことには価値がある。知らない娯楽は選択できない。相手の記憶に少しずつ根を降ろしていくことで、ふとしたタイミングの選択に「あ、そういえば……」と思わせることが出来ればこちらの勝ちである。この方法は即効性には欠けるが、誰にも気づかれないうちにじんわりと思考を操作していくような感触があって面白い。SNS上の緩い双方向性コミュニケーションが発達した現代ならではの手法だと思う。二つ目は観せたい相手に直接名指しで推薦するやり方。今回食らったのはこっちである。このやり方はとても難しい。信頼関係が構築されていないと相手にされないし、相手が満足する自信のあるものを勧められないとお互いに不満が溜まるだろう。しかし効果は絶大であり、信頼のおける相手からの一撃は重い腰を動かし新しい刺激に身を任せるに十分なインパクトを持つ。こうした「推薦」という行為を技術として体系的に纏めた本とか無いのかな、と日々考えている。心当たりがある人は是非教えてほしい。

 

 閑話休題。LILIUMの話である。実際のところLILIUMは非常に面白かった。傑作と言っていい。前述したような取っ付きにくさを持っているにも関わらず、多くの人を惹きつけるだけの面白さがあった。特筆すべきはミュージカルとしての音楽、そして練りに練られたシナリオの二つである。

 

 音楽面は非常に優れている。ミュージカルの歌詞は説明的になりがちで、抑揚の少ないだらだらとした曲調になってしまうこともあるのだが、LILIUMのそれはどれも格好良く、叙情的で、感情の奔流のような力強さに満ちている。演者がアイドルというのもここでプラスに働いている。歌、踊り、そしてそれらをステージで「魅せる」ことにおいて彼女たちは既にプロフェッショナルだ。劇中の谷間の部分で緩んだ雰囲気が流れる場面があっても、曲が流れ始めた途端に空気は一変する。「アイドルの舞台なんてチープな出来なんじゃないか?」という心配は開始五分で杞憂に終わる。

 

 リリー役を演じる主演の鞘師里保。彼女がすごい。まず猛烈に顔が良い。Eラインが綺麗すぎてビビる。アイドルを揃えて綺麗どころばかり集まっている舞台上で一際目立つその容姿は、まさに主役といったオーラを湛えていて、この物語の重厚感を大きく引き立てている。さらに演技も良い。彼女は顔が良いだけの客寄せパンダなどでは決してなく、舞台の中心に立って物語を牽引するに足りる演技力を持っている。顔が良い女が質の高い曲に乗せて真に迫る演技をする――そんなの面白いに決まっている。

 

 シナリオの話をしないわけにはいかない。失踪したシルベチカ、それをサナトリウムでただ一人覚えているリリー。秘密を隠している寮長の二人。人間と吸血鬼の混血であるがゆえに虐げられ続けた少女、マリーゴールドが爆発させる感情。全てを知る孤独な少女、スノウ。そしてTRUE OF VAMPなる吸血鬼の祖とサナトリウムに隠された真実……。「サナトリウムに囚われた吸血鬼の少女たちが迎える残酷な運命」という胃もたれしそうなほど油っこい設定がテンポ良く、わかりやすく展開されるの脚本は見事の一言。特に終盤の畳み掛けは凄まじい。初回公演では拍手すら起きなかったという噂も納得の鞘師さんの熱演、いや怪演。全部最後のアレが悪い。いやアレが良いんだけども。

 

 総じて「アイドルなのに凄い舞台なんだよね」ではなく「アイドルだからこそできる舞台」になっていたと思う。主張の強いゴシックな白衣装を彼女たちはしっかりと着こなすし、ミュージカルのキモとなる歌とダンスは観客を魅了するに十分な迫力を持っている。舞台上の演技は、そりゃあ本職の舞台俳優と比べると些か見劣りするかもしれない。でも決して拙いということはないし、その発展途上の演技は、サナトリウムに閉じこもり俗世間に触れていない吸血鬼の少女らしさに質感を付与しているのではないか。

 

 得てしてこういう文章は「……というわけで超面白い◯◯は配信サイトの××で視聴できるので是非どうぞ」という締め方をするものだが、残念ながらLILIUMは9/14(金)を持ってU-NEXTでの配信を終了してしまった。他に配信しているサイトがあるのか、よく分からない。いずれどこかの配信サイトで配信が再開されると思うのでそれまでこのLILIUMという作品の名前を覚えておいてほしい。LILIUMの名前を再び目にした時にハッと思い出せるように。

君はいますぐ「ペンギン・ハイウェイ」を見に行かねばならないと僕は考えるものである。

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 ペンギン・ハイウェイを見た。少年とお姉さんとペンギンを中心に描かれた非常に面白いSF映画で、視聴後にじんわりと全身が満足感に包まれる一方で、SNS上でお姉さんのおっぱいが大きいことにしか言及していない連中に対して沸沸と怒りを感じていた。お前たちはおっぱいのことしか話せないのか。それではおっぱいに興味を示す人にしか届かないではないか。アオヤマくんがお姉さんに抱く未分化した感情や、研究に対する真摯な姿勢、ペンギンの正体、知性の描き方、お姉さんの表情や振る舞いそして言葉使いが構成する絶妙な「お姉さん」という存在を一切掬い上げられていないではないか。そうした大きな気持ちを抱いた。しかしこれも仕方ない部分はある。娯楽が飽和する現代社会、大衆に訴求するには分かりやすくインパクトのあるフレーズが重視される。短文に情報量を詰め込めようとするSNSなら尚更のことだ。その中で彼らが目を付けたのが「お姉さんのおっぱい」だったのだろう。しかしここはブログという一定以上の文章量を許容されている媒体なので、思う存分文字を使ってお気持ちを書き表したい。彼らの事情は理解しないでもないが、感心もしない。

 

 と、おっぱい論者に対してけちを付けては見たものの、この映画が少年が大きなおっぱいとお姉さんに向ける大きな感情を描いた映画であることは事実である。主人公であるアオヤマくんはお姉さんのおっぱいへの興味を恥ずかしげもなく公言するし、彼のノートにはおっぱいのスケッチや大きさを計算する数式が書かれている。そして彼はお姉さんのおっぱいをいつも見ている。どれだけ見ているかと言うとお姉さん本人に「私のおっぱいばかり見ているじゃないか」と窘められるほどである。映画の画面構成も、彼の視点を反映しているかのようにお姉さんのおっぱいを常に写している。立つお姉さん、座るお姉さん、チェスを指すお姉さん、寝るお姉さん。どのお姉さんが映されるときでも、わざとらしくない程度に(それだけおっぱいばかり映っているのでどうやってもわざとらしいのだが)おっぱいが画面に収まるようにカメラが向けられている。それを見てアオヤマくんが「なぜ僕はおっぱいのことが気になってしまうのだろう。なぜおっぱいはいくら見ていても飽きないのだろう。お母さんのおっぱいと物体としては同じなのに、どうしてこんなにも印象が違うのだろう」と悩むシーンが好きだ。まず、アオヤマくんは頭が良い少年なのである。どれほどかと言えば原作の小説は「ぼくはたいへん頭が良く――」から始まるくらいで、彼は非常に賢く、そしてそれをきちんと自覚している。そんな聡明な少年がお姉さんのおっぱいに対して抱いた感情をうまく言語化できず、ノートに整理してまで思い悩むのである。賢く早熟な少年が、感情という名の理論の通じないモンスターに対して、言葉と思考と観察を費やす場面が、猛烈に好きなのである。

 

 アオヤマくんについての話をしたい。アオヤマくんは先述した通り賢い少年であり、今作の主人公である。この映画の好きなところの一つに「賢さ」の描写の巧さがある。アオヤマくんは何度も繰り返している通り「賢い」少年なのだが、では彼の「賢い」という性質はどのように表現されるべきだろうか。ここで「テストでいつも満点」とか「先生の稚拙な説教を論破」とかいう描写をされると一気に興ざめなのだが(こうした展開に興ざめする感情の動きを、何も言わずとも理解してくれる人向けにこの文章は書かれているので細かいロジックの説明はしない。こうした表現を好む層がいることも事実である)、実際のところアオヤマくんの「賢さ」は研究的思考と整然とした発話に纏められていて、その描写が非常に気持ち良いのである。アオヤマくんは何でもノートに書く。気づいたこと、見たこと、思ったこと、考えたこと、やるべきこと。その全てをノートに書く。そうして蓄積した情報から新しい仮説を導くと次はそれを実証する。条件を変えながら実験を繰り返し、その結果をまたノートに纏める。そうして仮説を証明したり、また新しい仮説を考えたりする。彼の姿勢は科学そのもので、それでいてこまっしゃくれた感じはない。アオヤマくんは頭の使い方と同じくらい、ノートの使い方を知っている。そんな彼の賢さの表現はすごく上手で、納得と満足感があった。

 

 アオヤマくんの友人にウチダくんという人物がいる。ウチダくんはアオヤマくんのクラスメイトで、アオヤマくんと同じく強い知的好奇心を持つ少年である。彼の存在がアオヤマくんのアオヤマくん性(とでもいうべきもの)をうまく強調していると思う。ウチダくんはいわゆるテンプレート的な――渾名がハカセになるような――少年で、街の探検とそれを地図に纏めるのが好きで、眼鏡をかけていて、気弱で、クラスの図体がでかいやつにびくびくしている。ではアオヤマくんはウチダくんとどう違うかというと、一番にアオヤマくんは自信に満ちている。発言ひとつひとつが吟味されていて、躊躇がない。アオヤマくんの話し方を聞くと誰もが大人っぽいと感じるだろうけど、その原因は言葉使いが大人びているからでも、子供らしくない論理的な会話をするからでもなく、その喋り方にある。アオヤマくんの淡々と、それでいて自分の正しさを疑わない自信に満ちた話し方は聞いていてとても気持ちが良いのだ。二番目に思考力にも差がある。ウチダくんはあくまで「好奇心旺盛な子」という範疇を出ない。一方アオヤマくんには先述した通り科学的な、研究者的な視点を持っている。この物語はアオヤマくんの住む郊外の住宅街に突然ペンギンが現れるところから始まるのだが、突然現れたペンギンに興奮する一方のウチダくんに対してアオヤマくんはその現象の原因について考察し、仮説を立てようとしていた。こういう対比を繰り返してアオヤマという少年の特別性をすこしずつ浮き立たせていくのは上手かった。

 

 ウチダくんのような少年が「お姉さん」に出会い、新たな経験を積んで、一皮向けて大人になっていくという成長譚としての物語は王道の一つだろうけど、その道を進まなかったのがペンギン・ハイウェイなのだ。ペンギン・ハイウェイペンギン・ハイウェイ性を担保しているのはアオヤマくんなのだと思う。やや余談だけどウチダくんがペンギンに名前をつけていたのが好きだ。アオヤマくんは名付けなんてする素振りもみせておらず研究対象として見るばかりだったので、そういうところがアオヤマくんとは違う、ウチダくんの良いところなのだと思う。

 

 本当はもう少しお姉さんのこととか、アオヤマくんと同じくらい知的でアオヤマくんの百倍は感情が大きいハマモトさんのこととか、アオヤマくんのお父さんの聡明な教育的態度とか、そういう話をする予定だったが、街に訪れた謎を解明していくアオヤマくんの賢さが好きで仕方がないという自分の気持ちがハッキリしてきたのでこの辺にしようと思う。特に話の根幹に関わる話はしていないと思うので是非劇場に足を運んでこのうまく作られた作劇を堪能してほしい。会話の妙、街を襲う謎とその解明、アオヤマくんとお姉さんの間の感情の機微、どれもがすっきりとアニメーションとしてうまく纏まっていて、非常に面白い映画になっている。原作小説をどう読み替え、抽出し、再構築したのかも興味深いはずだ。自分は早速Kindleで購入して読み始めているところで、読み終わり次第もう一度劇場に足を運びたいと考えている。

 

 君はいますぐ「ペンギン・ハイウェイ」を見に行かねばならないと僕は考えるものである。これは仮説ではなく、個人的な信念である。

penguin-highway.com

半ナマ百合への向き合い方が分からなくて体調崩した

半ナマ百合にハマったくさいんだけど、どう向き合ったらいいのか分からず感情の行き先を定められずにいたら全く眠れず体調を崩した。つい昨日の話だ。頭痛と腹痛がキツい。タイトルの時点でオチているので蛇足でしかないが書けることを書いておきたい。何かしらの形で外に出して代謝を促さないとこの自家中毒は治らない。

 俳優やアイドルにハマって来なかったから経験値が無い。半ナマへの向き合い方が分からない。推しカプとか言っていいわけ? どのような配慮をすべき? 感情の矛先はどこに向ければいい?著作権方面の問題と言うよりは外野が騒ぐことで二人の関係性に余計な影響を与えてしまうことが怖い。

一次にせよ二次にせよ、創作コンテンツを見る分には問題なかった。「女と女が〜」とか「感情が〜」とか「実在性が〜」とか言ってればよかった。(この言い回しもやや古くなってはいるのでアップデートは必要なのだが)ベクトルの向け方はある程度分かっているつもりだった。インターネットの治安の悪い発言を見てゲラゲラ笑い、苗字を呼び捨てにした妄言を電子の海に垂れ流しておけば良かった。創作物は次元の壁に遮られて水質汚染の影響を受けない。

だけど今回は違う。半分とはいえナマだ。彼女たちは私たちと地続きのインターネットに生きていて実在性2.0との向き合い方を突きつけてくる。実在はそこにあり、同じ海を漂っている。今まで無節操に垂れ流してきた廃水は管理下に置かねばならない。海に廃水を流してはいけない。

つまり廃水処理場を作ってその中で泳いでいくことがこれからの目標になるのだろう……おっ向き合い方の答え出たじゃん!やったぁ!やっぱり書き出すって大事だね。人間は弱いから自分の感情すら上手く処理できないのだなぁと改めて思いました。ていうか半ナマ以前に現実の ”圧” が強過ぎてお腹痛くなる。2018年のインターネットコンテンツマジでスゲーよな……これが平成が終わるってことなのか……みたいなお気持ちです。以上現実の速度が速すぎて身体が悲鳴を上げた話でした。かしこ。

うんこ!ちんこ!女子小学生のおしっこ!ダンゲロス1969を読め

先日、京極夏彦の「鉄鼠の檻」を読み終えた私は次に何を読むべきか悩んでいた。

順当にいくなら次の「絡新婦の理」を読めばいいのだが、シリーズ最高傑作との評判に少し気後れした。一旦クールダウンしたい。馬鹿げていて、笑えて、インパクトがあって、それでいて読み応えのあるような、そんな本は無いだろうか……!

そんな時に飛び込んできたのが横田卓馬先生によるダンゲロス1969コミカライズ決定の告知だった。

 

何年も前、フラッと寄ったコンビニで立ち読みしていたら面白そうな漫画が載っていた。「魔人」という超人的能力者、コミカルな能力名、躍動感に富んだ作画、どれも非常に好みで一目で気に入ったのを今でも覚えている。それがコミカライズ版「戦闘破壊学園ダンゲロス」。その日のうちに原作小説をAmazonで注文した。

 戦闘破壊学園ダンゲロスは一言で纏めるなら「学園能力バトル物」である。「魔人」と呼ばれる能力者たちが存在する世界。多くの魔人が在籍する私立希望崎学園・通称戦闘破壊学園ダンゲロスでは生徒会と番長グループ、二つの魔人組織が対立しながらも膠着状態を続けていた。しかしある事件をきっかけに関係は急激に悪化。学園公認の全面戦争「ダンゲロス・ハルマゲドン」勃発へと発展。容赦無い殺し合い、絡み合う思惑、そして「転校生」……ハルマゲドンの結末とは!?と結末の見えない展開が魅力……なのだがそれだけではない。ダンゲロスの一番の魅力はバカバカしく、下品で、荒唐無稽な能力や人物にある。

例えば鏡子という魔人がいる。メガネに三つ編みのいかにもといった地味な風貌をしているが彼女の本質は全く違う。本文中の説明が特に好きなので引用する。

この “魔人” 鏡子一見するとあどけない容姿だがその実超絶的な性技を備えた人を超えた淫乱ビッチ!! 荒淫において右に出るものなしと言われたビッチ中のビッチ!! ビッチ・オブ・ビッチである!! おそらく宇宙一 セックスが巧い

ここで面白いのは鏡子の性技術は魔人能力によるものではないというところだ。研磨と鍛錬により磨き上げた技術一本で宇宙一のビッチとなった女。一撫でで射精に導くことが可能で時間を掛ければ衰弱死させることすら容易いほどのビッチ。後年には人間国宝に指定されその名前は性行為と同義として辞書に載るほどのビッチ。まさしく本物の人間である。

そんな彼女の能力「ぴちぴちビッチ」は己の持つ鏡の中に半径2キロ以内の任意の場所の映像を映し出し、その鏡の中に映った物質・人物に対し「卑猥な目的」でのみ鏡を通して干渉が可能というもの。先の性技と組み合わせることで範囲内の人物を即座に射精させ無力化させることができる最強の門番なのである。

他の能力者もクセが強い。発火能力とは無効化能力とかそういう一般的能力バトル物で見られるような能力者は皆無で、範囲や条件に妙な制限が付いたり用途がイマイチ不明瞭な魔人ばかりである。こうした能力の応酬、エログロバカな魔人たち、それでありながら御都合主義で無いロジカルな展開がダンゲロスの面白さである。小説版コミックス版共に発売中。戦闘破壊学園ダンゲロスを読め。

 

話を冒頭に戻す。このダンゲロスの続編がダンゲロス1969である。1969年を舞台にした過去編に相当する内容になっているが登場人物はほぼ新規キャラクターなのでこちらから読んでも全く問題無い。それが前回同様に横田卓馬先生によってコミカライズされることになったのである!

コミカライズを担当した横田卓馬先生は天下の少年ジャンプで「背筋をピン!と」「シューダン」と青春部活漫画を二度続けて連載していたので「そっち」の路線で行くのだとばかり思っていた。金玉や精液や女子トイレでオナニーする漫画はもう描いてくれないのかも……と内心寂しく思っていたところにこの朗報である。大いに興奮した。

恥ずかしい話ではあるがこの時点ではダンゲロス1969を未読だったばかりか存在すら知らなかったのだが「馬鹿げていて、笑えて、インパクトがあって、それでいて読み応えのあるような本」、まさしくこれではないかと運命的なものを感じつつ即座にAmazonで購入した。数年の月日の間に紙から電子書籍へと読書形態を移行していたのだが、Amazonを使って購入するところはそのままだったのが可笑しかった。

 

さて件のダンゲロス1969である。今作は学生運動に焦点が当てられていて、東大安田講堂に立てこもる魔人学生とそれを殲滅せんとする魔人公安の戦いとなっている。要は前作と同じく陣営VS陣営の能力バトルの構図である。

今作では何がパワーアップしているか?それはエロ、そしてバカである。前作でもその様子は見られたが、エロは誇張が過ぎると一瞬でバカになる。例えば先述の鏡子。「一撫でで射精させる宇宙一セックスが巧いビッチ」がバカの領域に片足を突っ込んでいることは納得できるかと思う。今作の魔人はさらにレベルアップ。腰までバカに浸かりきった下品っぷりである。

まず魔人公安の神乃太陽。彼はうんこと炎を置換する能力を持っている。うんこが炎になり、炎がうんこになる。一見ただのバカ能力だが侮ることなかれ。学生運動を中心に進むこの小説では学生側の基本武器はゲバ棒、そして火炎瓶である。後者を完全に無力化する防御の要として神乃は八面六臂の活躍を見せるのだ。

その神乃の相棒となるのが同じく魔人公安のゴリラ。通称ゴリさんである。ゴリさんは文字通りゴリラなのでうんこ投げを得意としている。その腕は百発百中。狙った獲物は逃がさない。ゴリさんがうんこを投げつけ、神乃が炎に変える。ゴリさんと組むことで最強の盾は最強の矛に変化するのである。

タイトルに挙げたうんことはもちろんこの二人のことであり、当然ながら常にちんこ丸出しの魔人公安清水一物や女子小学生のおしっこ限定で水操作能力を行使できるアトランティス鈴木などがいる。前回同様ロクな能力者などおらず、登場人物欄を読むだけで人生が豊かになること請け合いである。

 

ではバカ要素をマシマシにしたダンゲロス1969はバカ小説なのか?と言われるかもしれないがそれには大きな声で否と叫びたい。魔人という架空の設定と実在した学生活動を上手く馴染ませて説得力を持たせた活動理念、公的機関であるが故の魔人公安のしがらみ、どちらにも理がある二者の衝突、裏切り、すれ違い、そして月の女王。ふざけているとしか思えない能力が巧みに文脈を作りその応酬は大きなうねりを作りながら物語を進行させていく。学生、公安、勝つのはどちらか。誰が死に、誰が生きるのか。飛び交ううんこと精液。そして恋の行方。社会派小説としての側面も持ち合わせた非常に面白い小説となっている。コミカライズも始まり非常に良いタイミングなので小説漫画共に読んでみてほしい。ダンゲロス1969を読め。

 

ヤングマガジン サード 2018年 Vol.4 [2018年3月6日発売] [雑誌]

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ダンゲロス1969

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戦闘破壊学園ダンゲロス (講談社BOX)
 

 

バーチャルYouTuberはキャラクター性の概念を拡張する

kai-you.net

先日、バーチャルYoutuber輝夜月のインタビュー記事がKAI-YOUにて公開された。

そこで語られていた内容を見て気づいたのは「バーチャルYoutuberは既存のキャラクター性の概念を拡張している」ということ。バーチャルYoutuberの新しさはここにある。

キャラクターという存在と私たちの住んでいる世界との間には次元という名の断絶がある。エンターテイメント性を高める手段の一つとしてこの断絶を埋めようとする様々な工夫が凝らされてきた。

例えば声優のメディア露出。声優個々人の人格やパーソナリティに魅力を感じている部分がある一方で、その奥にキャラクターの影を感じることが一切無いとは言えないだろう。三次元のヒトを通して二次元のキャラクターの実在を感じていると言える。

例えば拡張現実(AR)やバーチャルリアリティ(VR)の技術。フィクションのフィクション性はそのままに、それを現実に投影するかたちで新しい実在を体験できる。こちらは現実空間(三次元)を二次元化していると言えるだろう。

2次創作にもこの流れはあって、シナリオの上では不要なノイズなので描写されない要素を限界まで拾い上げていく等の工夫によって一つの人格としての強度、いわゆる「実在性」を高めていく創作形態がある。

ここでバーチャルYoutuberの何が新しいのか。それはキャラクター性の方を拡張し、現実に肉薄させてきたところだ。二次元を限界まで三次元化したと言ってもいい。

彼ら/彼女らは私たちと同じ時間の軸で生きている。同じ時間、同じ文化、同じ日常を共有し「まさしくそこに存在している」かのような存在としてふるまう。同じ季節を感じ、流行りのゲームを遊び、リアルタイムで放送をする。それが動画という情報量の豊富な媒体に乗せて発信されることでこの上ない説得力を持って私たちに届けられる。同時性、即時性が最大限に高められた、今までにない強度の実在性をもつキャラクター概念。それがバーチャルYoutuberの新しさ、強みの本質だ。バーチャルであること、Youtuberであることは技術と流行がたまたまその位置にあったからに過ぎない。

 例えばバーチャルYoutuberがよく行っている生放送。これは今までのキャラクター概念ではほぼ不可能なことだった。声優を呼んでニコ生を放送したり、ネットラジオを放送することはよくあったがそれはやはり声優であってキャラクターではない。ボイスドラマの形式でキャラを演じる放送は可能だったが、それでも音声しか届けられない。リアルタイムで絵を動かしながら生の音声を放送することは至難の技だ。

その点バーチャルYoutuberはどうだろうか。元気に喋り、企画を進め、フリートークで場を盛り上げる。生放送ならではのハプニングは彼ら/彼女らの実在性をより強調する。その様子がリアルタイムで「動画」のかたちで配信される。リアルタイムで、動いて、喋る。それがインターネットを通じて即時に、同時に私たちに届けられる。この点においてバーチャルYoutuberは今何よりも強い優位性を持ってインターネットのストリームを席巻している。「年越し生放送が出来るキャラクター」とイメージしてもらえば今までのキャラクター性との違いがイメージしやすいのではないだろうか。同じ時間を共有できる(現状)唯一のキャラクター概念。それがバーチャルYoutuberなのだ。

繰り返すがバーチャルYoutuberの強みの本質は「拡張されたキャラクター概念」にあって、バーチャルであることでもYoutuberであることでもない(もちろん、バーチャルだからYoutubeだからこその強みは存在する)。ということはこの先、バーチャルではない技術、Youtubeではない場所で同様の拡張が発生することは大いにあり得ることだ。例えばバーチャルYoutuberの生放送の要領でLive放送されるテレビ番組。例えばスクリーンへの投影によるライブツアーを行う歌手。きっとそれは全く新しいキャラクター体験として私たちの目に映り、キャラクター性はさらに拡張されて私たちとキャラクターの境界は限りなく空っぽになっていくだろう。 新しい時代はもう目の前にまでやってきている。